nachari’s blog

最近なみだもろい私の涙した話

無職life is beautiful

 

退職しはや3か月が経過しました。

タイトル通りの生活を送っていますが、お仕事をやめた当初はそりゃあもう不安定で不安定で。なかなかないというか、そうそう繰り返したくはない経験なのでここに当時のことを綴っておこうと思います。

 

おしごとをやめるというのは、決められた予定がなくなるということで、まず襲い掛かってきたのはすさまじい虚無感。よくいわれる社会と切り離されたってやつですね。

え?なにすればいいの?すべきことってなに?あれ、あたしの意味って…状態。

おしごとやめたいと言いつつも、働いていることに自分の価値を感じていたんだと思います。誇りをもっていたというか。だから無意識に自分で自分を責めてましたね。

 

同期や後輩ちゃんから連絡があったりでこれまでと変わらない会話をしていても、

「わたしが働いていたときは~」とか

「もうやめたからそんなこという筋合いないね」とか

ナチュラルにネガティブでしたね。ナチュネガ。

 

何年間も働いてきたし、ここ一年は不妊治療もあって心穏やかではなかったし、失業保険もらいながらゆっくりのんびり過ごそうなんて思っていたはずなのに、ところがどっこいでしたね。寝て起きてのなんの生産性のない、ただ食べてるだけだって自分を責めてばかりで。日が経つにつれて今度は、もう仕事なんてできない、やりかたわすれちゃったって自信までなくしちゃって。

これまで頑張ってたことも簡単に忘れちゃえるくらいに環境的って影響力ある。

 

退職する日を指折り数えて、当日も早々にお疲れ様でしたー!ってスキップしながら帰ったのに。帰り道は車内でソロライブ繰り広げながら意気揚々としていたってのに。

すべては感情。

 

職場の、あ、元職場の先輩と退職後に会うことになって、もやもやした心情を聞いてもらいました。先輩も退職経験があり、わたしに共感してくれましたし、時期に大丈夫になるともいってくださいました。

だれかに気持ちを話すことで頭の整理ができて、なにに不安を感じてるのか、なんでこんな気持ちになるのか考えられて、ひとに会うのって大事だと思いましたね。

今その時のことを先輩に聞くと、完全に鬱だったっていわれますけど。

 

時期に大丈夫になるってのは、ほんとその通りで。

慣れってすごいですね。適応能力というか。

 

何も行動おこさなければ変わらない環境で、それがわかるとじゃあこの中でなにをするかって考えるようになると段々前向きになれてきて。今では好きなときに映画みたり横になったり植物育ててみたり運動したり。

もし退職したてのあたしに会えたら、なんとでもなるから思い悩まなくてもいいといってやりたいですね。

 

なにより大きく変化したのは、不妊に対しての心持ち。

焦りとか不安とか、プレッシャーがふとしたときにのしかかってきて息がしにくくなっていました。いつもだれかと比べて勝手に凹んで泣いて。

お仕事をやめたことで、再就職のときに不利だとか治療との兼ね合いはどうすればいいんだとか、でも給料はこれくらいでやすみは…って先の心配も大きくて。

なんて生きづらいんだ!この世界!なんて思ってました。

 

今もクリニックに通っていますが、歯医者にいくような感覚で え

前みたいな気だるさというのはそれほどないですね。むしろ通院して行動を起こしていることに前向きに思えています。このまえ卵管造影したんですけど、その時はさすがにこの世のおわりかとは思いましたね。それに何度か主人とシビアな話し合いもしましたし、全く不妊へのもやもやがなくなったとはいえませんが。

外出できなくなるとか急に泣いちゃうとかはなくなりましたね。

 

多分いまの現状が自分の想像する中で一番かけ離れた形になっていて、こんな状態ならもうなんでもどうとでもなるだろうって思えちゃってるのかな。

すきなことをすきなようにやっていいマインドになったことでしあわせって感じることも増えた気がする。あとジムに通いだしたのも前向き要素でしょうか。筋肉は前向きになるってよくききますし。

 

とはいっても永遠にずっとってわけにはいかないから、ともだちの妊娠報告とかバリキャリ同期の昇格とか先輩の副業開始とかだれかの変化に触れあうことで一気に引き戻されるんですがね。

 

こころが安定しているのは間違いなくて、これまでなかった主人との時間もじっくり楽しめているし経験していないことを今思い出してやっているような感じ。一緒にご飯つくったりポケモンカードしたり映画みたり旅行にいったり。

 

自分たちのペースで生きていけばいいんだなって、なんでも自分次第だなって思います。そんなふうに向き合えたことがもう価値ある。それになにより、変わらずいてくれる友人と受け入れてくれる主人に感謝。

 

必要な時間なんだと思う。

結構時間はいるみたいだけど、ちゃんと必要な時間。

ちゃんと噛みしめながら過ごさないとなぁ~。

 

ピーナッツぼりぼり頬張りながらこれを打っているわけですが、まあなんともアニメには救われているわけで、この時代に生まれてよかったとつくづく。

 

落ち込んだらアニメみるべきだな、まじで。

不妊治療わけわからんけどしんどくて涙

 

タイトル通り、治療をしている身なのです。経緯から話すのは長すぎる気がするので、

まずは今の思考を覚えておくために、直近のことから振り返ろうと思います。

 

先日婦人科の受診でした。

ホルモン補充の注射を打ちに、一日おきに通っています。

で、その帰りなんですけど、車に乗った途端ポロポロ涙がでてくるんです。注射は痛いは痛いですけど、「もうやってくれるな!」って程ではないですし、通うことも「距離が遠くて」というわけじゃないです。ただポロポロと。

なにがってわけじゃないんですよね。なにかこれっていうのがあって、涙がでてるわけじゃないんです。でもハッピーとか感動とかそういうのが原動ではなさそうで。

考えてみたんですね、涙止まりませんし。

まあ、状況も状況なので、概ね不妊治療に関することで当たってはいそうです。でも「つらかったな」「しんどいな」って思いはなんとなくするんですけど、なんでかは明確にわからなくて。それのみでもいいかもしれないですけど、「つらかったです」だけで片付けたくないというか、それじゃあまりにも救われなさすぎるって思って。

浮かんできたのは「ゴールがみえないな」ってことでしたね。

今やってることが、めちゃくちゃハードで通院も注射も「できることなら今にでもやめたい!」(いや、できることならやめたいですけど笑)って感じてるわけではないんです。ただやっぱり、いつまで続くんだっていう絶望感があるんですよね。やっていることの意味がないわけないし、どんなけ取り組んだとしても報われないこともあるし、それはわかってるんです。わかってるんですけどね~頭では。

見込みが立たないことが結構わたしにとってストレスらしいんですよ。

というのも、主人の転勤で県外へ行くことが決まったのですが、割と急でして。

引っ越しといえば、あらゆるマルチタスクをこなして予定日までに完了しなければならないやつじゃないですか。でも、主人との予定もなかなか合わずで、新居がきめられず。場所が決まらなければ、引っ越し業者さんに依頼もできず、依頼できないと段ボールももらえず、段ボールがないと荷造りができず…という。

やらなきゃいけないことがあるのに、進まない状況とか見通しが立たないときにすごく不安な気持ちになるんですよね。で、なにもできなかったことを落ち込んじゃう。なにもやってなくないんですよ、本当は。いらないもの処分したり、本を譲りにいったり、駐車場解約したり。でも思っちゃうんです、「今日もなにもできなかったな、やることはあるのに」といった具合で。

この「何もできなかったな」思考はわたしの特性といか、もう肌に染み付いちゃってるやつでどうしようもないんです。だいぶ緩和はされてきてると思うんですねけど(主人のおかげで)、もうここまでくるとわたしの個性ですね。

そうなってくると、この不妊治療問題、やっかいです。

なにぶん、手放しで安心できるような見通しが立った状態なんて、赤ちゃんが生まれたときか治療自体をあきらめるときですからね。引っ越しみたいにタイムリミットがあるわけじゃないです。引っ越しはいずれ終わりますからね、そう考えるともっと精力的に引っ越し作業取り組めそうです(笑)

話は車内に戻りますが、ゴールがみえないことに対してネガティブになるっていうのは、できればやりたくないことだし、絶望を感じるからだと前述しました。でももしポジティブなことだとしたらどうかなって思ったんです。楽しいまでいかなくても、ゴールができなくてもいいって思えたらどうだろうって。

ちょうど受診の前に、本屋さんへ立ち寄って妊活の雑誌を読んだんです。たまたま目に入ったんです。初めてでした、そのたぐいの本を手に取ったのは。避けていたわけでもないですけど、今思えば当事者意識がないというのもあったのかもしれないです。治療しといてあれですけど。認めたくないって思ってたのかも。わかんないけど。

でね、その本に「私はつらくありませんでした」的な内容をみたんです。「ああ、こういう価値観のひともいるんだ」って正直驚きました。

治療になる流れって、私の想像では「赤ちゃんほしいな」→「なかなかできないな」→「受診しよう」→「治療」だと思っています。ほかにもあるかもしれないですけど。だから、治療に臨む気持ちとして「赤ちゃんがほしい」っていうのが、叶わなくてもしょうがないなって思っていなければ「つらくない」っていえないと思うんです。

雑誌にはそのインタビューされた方の、つらくない理由というか、治療のときの思いが書かれていました。夫婦仲がよく、ご主人からは二人での生活でもいいというようなことをわれていたそうです。また周りに隠さず、治療中というのを知ってもらうことで、協力がえられる環境にしていたみたいなんですよね。すごいなって思いました。なにがって、それをこうこうこういう理由だからつらくなかったって言いきれることが。

冷静にね、冷静に順序だてて考えたら、治療ってつらいんじゃなくて結果がわからない不安なんだって思うんですよ。不安なことがつらいって思ったらもうつらいんですけど(笑)

なんだかね「私はちゃんとわかってるよ!どんなことがあっても受け入れる覚悟もできてるよ!みんなもついてる!だから大丈夫だよ!」ってね、その人がいってるみたいですごいなぁっと思いました。わたしもそのステージにいけたら、もっとちがう気持ちで通院もできるだろうにと、全文も読まずそっと本を閉じました。

夫婦仲でいえば、とってもいいと思います。インタビューされた方のご主人のようなこともいってくれてます。でもね、とはいってもね。「わたしのせいで」とかおもっちゃうわけですよ。検査もある程度しました。原因はわかりません。不妊ってそうらしいです。原因わからないことがほとんどだって。だとしてもね、思っちゃうもんなんですよ、こればっかりは。

そうなってくるとね、やっぱり周りにいいづらいといいますか。そもそも大々的に発表することでもないですしね。ちょっと流れが暗い感じになってますけど、しょうがないです。結構わたし的にデリケートな部分になってますのでね。いま必死で文字にしてるとことです。

周りに知ってもらうメリットとして、協力が得られることだったり不必要に傷つかなくてもいいってことだと思うんです。敵意のない「こどもつくらないの~?」やらを回避できるわけですから。今時、そんなデリケートなこと話題にして「なんとかハラ」とかで攻められる方がリスク高いですよね。

デメリットとしては、対相手に気を遣わてしまうことでしょうかね。伝えたがゆえにこっちが気を遣うってのもありますね。私はこの気を遣う遣われる問答がきついですね。特に家族だとかなりきつい。

時代は変わったとしても、価値観ってそう簡単には適応していかないですよね。わたしは片親で、祖母と3人で暮らしてきました。祖母も離婚しておりまして、なんというか「強い女たち」みたいな家庭だったんですよね。まあその話はまた機会があるときにするとして、その祖母なんですけど、そもそも婦人科に通っていることをよく思ってなくて。妊娠なんて自然にするものって認識なのでね、そりゃそんな人からしたら、「なにをやっとるんだ!どんだけ時間かかるんだ!おかしいだろ!やぶ医者!」と、こうなるわけですよ。毎回毎回実家に帰るたんびにそれ。ちょっとしんどそうでしょ?(笑)でも、価値観の話だし祖母は年齢も年齢だから、いまさらそれをどうのってすることは難しいというか不毛というか。それに私のことが心配ゆえのってすごく伝わるのでね。なんでね、「そんなこといわないで~」とか「がんばるね~」とかいってなんとなくやり過ごそうとするんです。ただ、そうやって流せるときばっかりでもなくて。結構強くいっちゃったりすることもあるんです。そのあと猛烈に反省します。そりゃもう猛烈に。だってだれも悪くないですからね。感情がね、うまくコントロールできなくなるときがあるんです。今はそんなときの対処法をいろいろ実験中なので、これも機会があれば記事にしますね(なんでもネタ)

デメリットの話ですけど、自分の家族だけじゃなくて、主人の家族に対しても申し訳ないなって思っちゃいます。ほらもう年末じゃないですか、挨拶にいったときに親戚の方も揃われる可能性あるじゃないですか。想像しただけでぐっとしちゃう。「不妊治療中だっていえばいいじゃん」って思いますか。私もそう思ったこともあるんですけど、やっぱ申し訳なさが上回るんですよね。たまにしか会えないのに、気を遣わせてしまう、心配をかけてしまうってね。そっちのがきついんですよね。まぁどっちもきついんですけどね!(笑)

見通しが立ってないからこそ、そうなったときに説明できない。終わりがわからないとしても、いまこんなことしてるんですってことさえいえないのは、治療している自分のことを開き直れるくらいに認めることもできてないから。まだどっかで「自分はちがう」とか「きっともうちょっとで」とかどっかよそ事なんだなって思います。この気持ちと折り合いがつけば、涙も勝手にはでないようになるかもしれないですね。

「しんどいな」を細分化すると、なかなか難しい課題だってことがわかってきました。おもに私の性格とか特性のせいでこじれちゃってる気持ちの問題ですが。幸い時間がありますので、自分としっかり向き合っていこうと思います。わたしのことを理解して、もっと楽に生きられらるようにしてあげたいものです。

明日も受診です。

また帰りにポロっとしちゃったら、記事にしないと(笑)

激震 はじめてのひとカラで涙

 

「これは手をだしてはいけなかった。」

 

趣味がないな~、行くところないな~。

なんて思って目的もなく車を走らせていたときのこと。

私はこれといった趣味がなく、いや、なんにでも興味があって限定的でないというか飽きっぽいというか、その性格のために、時折なにをしたいのかわからない日が定期的に訪れる。そしてそれがまさにその日だった。

 

以前から、友人がヒトカラを楽しむ姿をみていた。

「またいったんだね」と驚かないほど、彼女にとっては日常的な出来事となっていた。

たしかに、たしかにカラオケはたのしい。

もともと私は音楽がすきでライブも行くほどだ。カラオケ自体だいすきだ。

これまでカラオケに行くとすれば、もっぱら友人や家族とで、ものまねをしたり、十八番をうたってはきもちよくなり。遊びにいくといえばカラオケというほど手軽に利用していた。

しかしヒトカラだけはしたことがなかった。

好奇心旺盛でもあり性格上、ヒトカラができない理由はない。幸い、これまでカラオケに行きたいな~と思うたびに付き合ってくれる人がいた。そう思うとヒトカラをする理由がなかったんだともいえる。今までは。

ある日に私は当てもなく車を走らせているわけなのだが、突然思いつくのである。

ヒトカラいってみよう。」

現在地から一番近いカラオケを探して向かう。気持ちはもうライブに向かうくらいの熱量だった。目的が明確になったこともあるが、やったことのないことを体験するという期待とかわくわくとかがこみ上げていた。

そうこうしているうちにジョイジョイへ到着。駐車場が開いていない。平日なのに、だ。しかもちょうど昼頃の明るい時間。

直前で止まったであろう車からはマダムが降りてきた。ひとりだった。

なるほど、これまでカラオケは複数人で休みの日にと思っていたが、主婦層だったりとか時間帯としてもここであることに需要があるのかもしれない。といっても、これまでカラオケ利用者について考えたこともなかったし、だからなんだって話だが、私としてはその考察ができたことすらも面白かった。

さて、今は満車で止められない状況。でももう私も止められない。一度ともった心の熱は簡単には消えない。

現在地より再び近くのカラオケ店を検索。ヒットしたのはBANBAN。学生時代に何度か利用させてもらっていた。たしか学生にもリーズナブルな価格設定だったような。まぁいい、とにかく駐車場が空いていればいいのだ。駐車場駐車場…とぶつぶつ唱えながらBANBANへのナビに従う。ふと見慣れた風景に気がつく。そうか、このBANBANはまさに私が学生のとき利用していたあのBANBANだったのか。ナビの通りただただ走りながら到着したのは地元のカラオケ店だったのだ。

無事駐車場の空きも確認でき、安心と懐かしい思いとともに店内へ。受付を目の前にして「おひとり様かって思われるのかな。」「こんな平日におかしくないかな。」と自分がスタンダードなのかどうかなんて心配な気持ちが、なぜか生まれていた。

いらっしゃいませという声とともに女性の店員さんが迎えてくれた。当然のように手続きは進み、スムーズに部屋にはいった。「ああもうこんなに当たり前のことなんだな。」

ここからは手慣れたもので、上着を脱ぎ、照明の調整をしてからマイクにカバーをかぶせて、ライブDAMにログイン。

「うわ、ずっと私のターンだ」

いつもなら誰かのうたう曲を聴いて、終わる前に次の曲を選ぶという、それがないのだ。時間も気にしなくていい。曲の流れとか考えて似た雰囲気の選曲もしなくていい。ずっと私なのだ。私からはじまり、次も私。その事実に、ヒトカラの大自由さを感じ、ずっしりとソファに座りこんだ。

なにも考えなくていいんだから、なにをいれたっていいんだと、履歴から知っている曲を上から入れていった。おおよそ前利用者はご年配の方だったのだろう。そこは飛ばし、はやりの曲がならぶ学生が利用したであろうエリアから数曲チョイス。

日頃なら、音程があいまいだったり歌詞をみたことがない曲はいれたりしない。前述したように、これまでカラオケはだれかといっているわけで、空気感というやつがあるのだ。雰囲気を重んじているからな、私は。それに中途半端で終わると、次のターンまでの時間が長くもったいないような気になってしまう。どうなんだろう、同じ気持ちの人はいるんだろうか。

水分をとる暇がないくらいに歌い続け、歌いながら入力が追い付かない状態となったところで一旦休憩。

「ええ!?もう2時間!?」

たのしすぎでは?という驚きで少しの間、ぼーっとしてしまったというか、放心状態になっていた。気持ちのいい疲れもあり、スタートしてからうたった曲を振り返る。

ライブDAMではアカウントを作成することで、自身が選曲した履歴が残る。最新の状態で更新されるため、同じ曲を歌うと以前に歌った履歴は消える。画面をみて「こんなにログを残しておいてくれるのか」と知った。というのも、今まで同じ曲ばかりを繰り返し歌いまわしていたために、実際は数曲しか歌っていなかったのだ。

並んだ曲をみて、私っていろんな音楽を知っているんだな、音楽がすきなんだなと感じた。自分の好きなこととかやっていて気持ちいいことってなんとなくわかったつもりでいても、どれくらいすきなのか、どんな瞬間がすきなのかっていうのはなかなか意識しないと自覚できないものではないだろうか。私はデンモクを眺めているときに、客観的に「音楽すきなんだな」と思えたことがなんだかより自分を知れたという感じでうれしく思った。

「よし、今後は歌詞を意識しながら歌ってみよう。そうだ採点もしてみよう。」

カラオケは歌を歌う場所である。しかしその楽しみ方は様々なんだ。

プルルル…

終了のお知らせである。楽しい時間とはあっという間とはよくいったもので。

飲み終わったコップをまとめる。「4回は飲み物とりにいったよな、いつもより水分とってるな、健康じゃん」なんて笑いながら受付に向かう。

今日はスタッフが少ないのか、少々お待ちくださいとのこと。レジに表記される「ありがとうございました。」という文字になぜか感動してしまった。思わず写真をとり、完全に不審なやつだと思われたタイミングで会計。

店を出たときのあの充実感はたまらなかったし、またできることへの喜びも感じた。

やったことないことにチャレンジするのって意識がないと難しいと思う。でもなにかきっかけがあれば、結構簡単に「やってみる」ができるんじゃないかな。そのきっかけやチャンスにちゃんと気づけるように、自分はなにに興味があって、これをしてるときは夢中だ、とかあれを考えてるときは楽しいとかそういう感覚をきちんと認識しなければいけないと思った。

全てを記憶なんてできやしなくて、目の前の課題に精一杯だからそんな余裕すらもなくて。でも自分のことは自分が一番知っていてあげたい。大切にしてあげたい。驚いたな、感動したな、これすきだったなをたくさん集めていきたい。私は私のコレクターなのだ。

ヒトカラで体験した気持ちを忘れたくないなって思ったのがこのブログのきっかけ。これからたくさんの感動に出会うと思うとわくわくする。

ヒトカラに感謝、ありがとうヒトカラ

また楽しむためにいろいろな楽曲を知らなきゃな。またそこで心動かされるものがあるといいな。楽しみだな。

ほら、もう夢中だ。

モンストはTVCMの情報しかない私が「THE MOVIE ルシファー 絶望の夜明け」によって涙

 

あれは鬼滅でしょうか、何度目かの乗車のときから気になっていた予告がこれでした。

映画の前に流される予告は、わたしにとって本編を盛り上げるいわばブースター的なものでもあって、いってしまえば予告がすでにもう本編の序章というくらいにテンションがあがります。

話がそれましたが、オーイシマサヨシさんの「英雄の歌」

この映画の主題歌であるこの曲ですが、とにかくいい。

リズムもいい。迫力もあって、盛り上がりもあって、そしてなにより映像とのマッチ力。全くモンストに関する情報がない私でしたが、予告度にうるうるっとくるものがありました。

モンストについてはTVCMで「ああ携帯ゲームか」くらいの認識で、キャラクター名はもちろん、世界観すら知らないストーリーでした。

赤い小さな怪獣がきっとかなめでヒーローなのだろう、悪を倒して平和になって、一件落着、みんなハッピー!最高!みたいな話なのだろう、きっと。うんうん、いい話に決まってるし感動するにきまってるな。と感動屋さんで涙もろい私はそう思っていました。

しかし当時は鬼滅熱真っ只中。劇場での鑑賞は、見事タイミングを逃していました。

「救世主にならなくてもいい~」と口ぐさむほどでしたが、本編をみることなく…。

そしてこのたび、アマプラでまためぐりあうことができました。

まず、2時間以上の映画で若干ヒヨる私。

「あれ?こどもがみる映画では?」

「家事をしながら片手間でみきれるかしら?」

不要な心配でした。

見終わるころには、あたりにティッシュが散らばり、胸いっぱいの満足感、そして適度な疲労を感じながらしばらくソファから起き上がれない状態でした。

そして今、鑑賞から数時間も経たないうちに思いのたけをここへぶちまけている状況です。

 

~ここからネタバレあり~

オープニングから、どういうシチュエーションなのこれは。人間世界ってことなの?なんなの?なんて迷子状態でスタート。正直「前情報なしじゃあやっぱきついか」と思いながら、せめて洗濯物がたたみ終わるまでは…と横目でみていました。

仲間を信じるけなげでかわいい生き物だと想像していた、小さな怪獣のイメージはどしょっぱつから打ち砕かれ、なんだこの自己顕示欲の強さは。勝手に抱いていた愛らしさとは逆の感情が生まれました。そして再び「みきれるかしら?」と。

そのくだりからは1時間半程度、ほぼ終盤までぶっ通しで戦闘シーンだったような印象です。でも飽きるとかそういった感想は全くなく、むしろ引き込まれる。体感でいえば30分くらいでした。登場するキャラクターの背景や仲間との関係性も全くわかりませんが、おそらく以前にすさまじい脅威に立ち向かった戦友なのでしょう。お互いを思いやる気持ちや守りたいものも、その戦闘から伝わってくるものがありました。そんな思いにさせてくれたのは、構成ももちろん、なによりとにかく、絵が美しい。きれい。キャラクターの表情もさることながら、戦闘時の演出・効果がすばらしい。まずもうその時点で感動ポイントなんですわ。最近はやりの、心情や状況をキャラクターが説明するような描写もなく、時間経過もリアルで体感時間の短さはストーリーの流れのスムーズさがなしえているのではないかと思います。

なにも知らないものですから、主要キャラはどの子なのか、黒めのクールな方々は敵なのか、まずどれがルシファーなのかと冒頭から頭の中でクイズが繰り広げられていましたが、映像美を前にその思考はとうにとまっていましたね。それにルシファー自体の圧倒的美しさに「ああ、あなたね」と理解せざるを得ない状態でしたね。

オチをいってしまうと、あの戦闘は驚くべき逆転劇のために用意された贅沢で盛大な前振りだったな、とすら思います。

怪獣に対してはその全貌がみえるまで、ただのアホキャラなのかと半ばそういう設定として認識していました。ただルシファーの意図を目の当たりにした後から、その仲間たちがそうであったように、私自身も彼への見方が変わっていました。こわいですね、偏見をもってみていたってことですよ。知らない間に、そういうものとしてみていたってことです。彼はずっとただただ同じ思いで同じことを伝え続けていたのに。当事者でなくても容易く偏見を持つものなんだな、と思い反省しましたね。アーサーがそういうとおもってのあたりなんて思わず「うわぁ」って声が出ちゃいましたもんね。仲間が怪獣ちゃんへ希望を託していくシーンは心揺さぶられるものがありましたね。ルシファーにやられたはずのおそらく虫やらに関するイケメン伯爵が復活し参戦するシーン。技もキャラに合っていて、そのクールさにくぎ付けでした。しかし最後には3方向からの一斉攻撃。つらすぎ。心がぐっとしちゃって、私、彼のことすきだったんだなって思いましたね。あと空間をつなぐ△を閉ざさまいと緑の男の子が耐える描写は苦しくなりました。ツインテールの女の子と友達になったばかりなのにぃ!と悔しさもありました。あれかな、感情ないよ系の設定だったのかな。「ぼくなんか死んでも悲しむ人はいない」「そんなことないよ」のやりとりは言われつくされてるけど、やっぱりこういうのは弱いですね。思えば、現実世界でなかなか「友達になろう」なんていわないですよね。なんなら「鬼になろう」の方が口にしてるくらいですね。いつの間にか友達の作り方、忘れちゃったななんて思いました。自分のことを知ってもらう工程がもう億劫になるというかなんというか。お互いに距離感を理解しあえている関係が一番楽で、それ以上がもうないというか、できないというか。あ、話がそれましたが、そのあとの展開も胸熱でしたね。怪獣くんと天使ちゃん?が図書館みたいな空間で対話するところ。天使ちゃんの過去の描写が流れたあと、説得にのぞむ怪獣くん。ルシファーにもそう思うだろ的なこと言われたあと、ボロボロ泣き出す怪獣くん。そして私。「たしかにぃ~」って逆に説得されちゃう私。でもそれに対して「託された光を消しちゃだめだ!」ってね。自分が信じているうちは光は消えないんだと、仲間を信じるんだと、そういっていましたね。はい、号泣。冒頭の怪獣くんのイメージはそのままに、ただ全く逆のポジティブなものに変わっていましたね。ああこの子にしかこれはいえないし、この子だから信じられるんだなって。まぁここからはハッピーエンドへって感じでしたけど、もしかしたらルシファーも戻ってくるんじゃないかって淡い期待してましたね。お墓がお花でいっぱいだったのは、どれだけみんなに愛されていたかという気持ちも感じてジーンとしました。最後の演出はなんだったのか。次回作があるということでしょうかね。そのときもぜひ主題歌を覚えようと思います。

怪獣くんに関して思い返してみると、発言の中から「ルシファーが世界を壊すならもうとっくにしている」的なこともあって、ただのアホちんではないのかな。それともずば抜けた天然なのかということも思いましたね。それぞれのキャラクターが自分のなせることを尽くし一つの目的に向かっているのって熱くなりますよね。誰もが役割をもち、余すことなく、適材適所でっていうのは実際の社会であまりないことではないでしょうか。自分にはなにができるのか、なにが必要とされているのか。怪獣くんのようにだれかを信じることはできているのか。人生を生きていく中で、明日からまた違った関わり方ができるといいなと思います。

いい映画をみたぞ、という満足度のかなり高い作品でした。